Masuk「この子の、ことですか」 自分のお腹に置いた手へ、力が入った。 「はい。澄麗さんと会う前に、知っておいていただきたいことです」 榊原さんは答える前に、テーブルの湯呑みを見た。 「澄麗さんから、面会の申し入れがあったと伺いました」 朔弥さんが頷いた。 「今朝、城戸に話した」 「会われるおつもりですか」 「そのつもりでいます」 私が答えると、榊原さんの右手が、吊った左腕を包んだ。 痛むのかと思った。けれど、その指は腕ではなく、何かを押さえ込むように布を掴んでいる。 「澄麗さんの前では、飲み物にも気をつけてください」 意味がわからず、榊原さんを見た。 「差し出されたものは、口にしないでください。席を立ったあと、戻ってきたものにも」 テーブルには、朔弥さんが淹れたお茶がある。 これは関係ない。そうわかっているのに、私は湯呑みへ伸ばしかけた手を止めた。 「どうして、そんなことを言うんですか」 榊原さんは、すぐには答えなかった。 「隠していることがあれば、終わりだとおっしゃいましたね」 「はい」 「ですから、共闘する前にお話しします」 城戸さんが彼女を見た。 鞄に添えていた手が、止まっている。 榊原さんは、私から目を逸らさなかった。 「以前、澄麗さんから頼まれたことがあります」 湯呑みの中で、お茶が小さく揺れた。 「薬で、あなたのお子さんをいなくすることはできないか、と」 『元気なお子様が生まれるように、本当に願っておりますのよ?』 花束を抱いて微笑んでいた澄麗の声が、耳の奥で蘇った。 あの時にはもう、この子を薬でいなくできないかと尋ねていたのだ。 腕の内側に、細かな鳥肌が立った。 妊娠してから、薬は一錠でも医師に確認していた。食べるものも、飲むものも、この子に届くのだと思って選んできた。 それなのに、目の前へ置かれた一杯に何が入っているかなんて、見ただけではわからない。 澄麗と同じ部屋で、何も知らずに飲み物へ手を伸ばす自分が浮かんだ。 「薬で……?」 私は、湯呑みを持ったまま榊原さんを見た。 応接室の窓は明るい。向かいには城戸さんが座っている。普通の昼前だった。 なのに、湯呑みの中を見てしまった。 朔弥さんが、私の手から受け取った。 「真尋。これは、俺
城戸さんの指が、鞄の持ち手の上で止まった。 「……え」 小さな声だった。 彼は写真へ目を落とし、それから、確かめるように私を見る。 「ああ」 何かに気づいたように、短く息を吐いた。 「……ずっと、疑っていらしたんですか。私を」 責める響きはなかった。 ただ、いつもの穏やかな笑みが、うまく作れずに消えていく。 私はすぐに、違うとは言えなかった。 暗い階段で助けてくれた手を覚えている。信じたいと思っていたのも、本当だ。 だからこそ、一枚の写真を何度も開いて、本人に聞くことさえできずにいた。 「……すみません」 先に謝ったのは、私だった。 城戸さんは首を振った。 けれど、大丈夫だとは言わなかった。 写真の中ではまっすぐカメラを見ていた人が、今は私から目を逸らしていた。 しばらくして、城戸さんはもう一度、写真へ目を落とした。 「車の中で人が動いて、そちらを見ました。配車の補助で来たと聞いていた人です」 「知り合いですか」 「いいえ。高瀬さんが乗る前に降りています。撮られていたと知ったのは、この写真を見てからです」 私は、画面の端を拡大した。 「私、あの車に乗ったんですよね」 城戸さんの指が、鞄の持ち手を強く握った。 「運転手と車両は確認しました。ですが、その人間までは。……申し訳ありません」 朔弥さんの手が、私の膝の上へ来た。 私は握らずに、その手の甲へ指を載せた。まだ聞きたいことがある。 「それに、一条さんから電話が来た時も、驚きませんでしたよね。停電も、私が転びかけたことも、あの人は知っていたのに」 「その前に、私にも電話をしてきていたんです」 城戸さんが、私を見た。 「高瀬さんをお願いします、と。こちらから予定を教えていないのに、どこにいるか知っていました」 「だから、疑ったんですか」 「はい。その後も連絡は切らず、何を知っているのか確かめていました」 「私が、城戸さんを疑うことは、考えませんでしたか」 彼が口を開き、閉じた。 私は端末を下ろした。 「今日も連絡したんですかって、あの日、聞きました。答えてくれなかったでしょう」 「……覚えています」 「私には何も言わずに、あの人とは話せたんですね」 城戸さんが顔を上げた。 言いすぎたとは思わな
『わかりました。お待ちしています』 そう返して一時間もしないうちに、玄関のチャイムが鳴った。 迎えに出ようと立ち上がり、廊下の鏡の前で足が止まった。 肩へ流していた髪の隙間から、首の付け根に赤い痕が覗いている。 「……朔弥さん」 「どうした」 「どなたかが、今朝、ここへ口をつけたようなんですけど」 振り返ると、彼は悪びれもせず近づいてきた。 「見せてみろ」 「つけた本人が確認して、どうするんですか」 朔弥さんは私の髪を肩の前へ流し、赤い痕を隠した。 「これで見えない」 「最初から、見えないところにしてください」 「次から気をつける」 次はあるらしい。 もう一度チャイムが鳴り、私は熱くなった頬のまま玄関へ向かった。 *** 玄関を開けると、城戸さんの後ろに、左腕を吊った榊原さんが立っていた。 靴を脱ごうと屈んだ彼女へ、城戸さんが手を差し出す。 「掴まってください」 「大丈夫です」 「段差があります」 榊原さんは一度彼を見て、その腕へ右手を添えた。 二人で来ると聞いていた。それなのに、実際に並ぶところを見ると、少し面白くない。 私にはいつも遠慮していた人が、彼女の肘には迷わず手を添える。ああ、そんなふうにもするのだ、と目が行った。 けれど、腕を吊る布が引っ張られた時には、私も思わず手を出していた。 「ゆっくりでいいです。誰も急いでいませんから」 「……ありがとうございます」 腹が立つことと、痛い思いをしてほしくないことは、両方あった。 応接室へ案内すると、朔弥さんが私の背中へクッションを差し入れた。 「もう少し右です」 「ここか」 「はい」 髪が肩から滑り、城戸さんの視線が、ほんの一瞬だけ私の襟元で止まった。 すぐに顔へ戻ったけれど、口元の笑みが、少しだけ薄くなっている。 気づかれた。 隣で朔弥さんが私の肩へ腕を回した。隠すつもりなのか、見せつけたいのか、よくわからない。 城戸さんは何も言わず、膝の上の鞄を持ち直した。 「病室でお話しした件の、続きがあります」 あの日、榊原さんは、私たち夫婦を別れさせるために送り込まれたと認めた。 証拠は警察へ渡した。それでも、一条家との決着がついたわけではない。 最初にそう言ったのは、城戸さんだった。
翌朝、寝室のカーテンを開けて、私は窓の前に立っていた。 大きな窓いっぱいに、朝の街が広がっている。昨日は気づかなかったけれど、下には公園があった。木々の向こうに遊具が見える。 背後で寝具が擦れる音がした。 振り向く前に、肩へ温かい頬が触れた。 「……起きたら、いないから」 寝起きの声だった。 朔弥さんの腕が後ろから回り、寝間着越しに下腹へ手のひらが重なる。押さえることなく、ゆっくり、何度も撫でてくれた。 「窓まで来ただけです」 「隣にいなかった」 「同じ部屋ですよ」 返事の代わりに、首筋へ唇が触れた。 すぐに離れると思ったのに、首の付け根へ吸いつくように留まる。 私はお腹に回された彼の腕を、きゅっとつかんだ。 くすぐったくて肩をすくめると、今度は耳の下に。 「おはようより先に、それですか」 「おはよう、真尋」 言い直したあとで、またキスをする。 挨拶さえ済ませればいいと思っているらしい。 私はお腹にある手へ、自分の手を重ねた。 大きな手だった。会社で書類をめくるところも、電話を握るところも知っている。その手が今は、私のお腹を飽きずに撫でていた。 「この子にも、おはようですか」 「ああ」 肩越しに顔を見ると、朔弥さんは私のお腹を見下ろしていた。 前髪が額へ落ちている。いつもの険しい眉間が緩んでいて、少しだけ口元が笑っていた。 こんな顔で、赤ちゃんを見るのだろうか。 抱かせたら、なかなか返してくれなさそうだ。 「下に、公園があるんですね」 私が指すと、朔弥さんも窓の外へ目を向けた。 「この子を遊ばせたいなと思って。もう少し大きくなったら」 「キャッチボールをしたいな」 すぐに返ってきて、私は振り向いた。 もう考えていたような口ぶりだった。 「朔弥さんが?」 「意外か」 「ちょっと。投げ方まで厳しく教えそうです」 彼は公園を見たまま、真面目な顔をした。 「最初は転がすところからだろう」 「そこから考えているんですか」 笑うと、お腹に重なった手が止まった。 「悪いか」 「いいえ。……見てみたいです」 芝生へしゃがみ、子どもへボールを転がす朔弥さん。 仕事の電話が鳴っても、今は無理だと言ってしまいそうだ。子どもが一度でも投げ返したら、私を呼ん
朔弥さんは、私を抱く腕を解かなかった。 片手で端末を取り、通話へ出る。 「何だ」 『一条さんの周辺を調べているそうね』 静かな寝室に、冴子の声が響いた。 朔弥さんの腕が、わずかに強くなる。 「誰から聞いた」 『そんなことはどうでもいいでしょう』 「俺が調べていることを母さんが知っている。その事実のほうが重要だ」 返事はなかった。 何も答えないことが、答えになっている。 『今すぐ手を引きなさい。一条さんまで敵に回したら、会社がどうなるかわかっているの?』 「母さんは、一条を選ぶのか」 『私はあなたを守ろうとしているのよ』 聞き覚えのある言葉だった。 守るため。 そう言って冴子は、私たちの離婚届を提出した。 『あの女にかかりきりになって、あなたは冷静さを失っているの』 「あの女ではない。真尋だ」 朔弥さんの腕が肩から離れた。 代わりに、私の左手を探す。 指輪のはまった指へ、一本ずつ彼の指が入ってきた。深く絡められ、手のひらが重なる。 『その人のために、一条さんとの関係まで壊すつもり?』 「関係を壊そうとしているのが誰なのか、これから確かめる」 『会社とその人、どちらを取るつもりなの』 朔弥さんが、私を見た。 端末の向こうにいる冴子ではなく、私だけをまっすぐに見つめる。 暗い部屋の中でも、その目は逸れなかった。 「真尋を選ぶ」 絡んだ指に、力がこもる。 「だが、会社も一条には渡さない」 『朔弥』 「二つに一つだと思っているなら、母さんは俺を知らなすぎる」 冴子が息を呑んだ。 「真尋も会社も守る。失うのは、俺から奪おうとした人間だ」 『母親を脅すつもり?』 「警告している」 朔弥さんの親指が、私の指輪をゆっくりとなぞった。 「今度、真尋に何かしたら、母親ではなく敵として扱う」 『私は、あなたのために――』 「俺のためなら、何もしないでくれ」 通話が切れた。 それでも、握られた手は離れない。 冴子へ向けた言葉のはずなのに、私の胸ばかりが苦しくなっている。 「……私を選んだら、会社を失うかもしれませんよ」 「失わない」 「どうして言い切れるんですか」 「君を選ぶことと、負けることは別だ」 迷いがない。 以前の朔弥さんなら、私を守るとい
言わなければよかった。 寝室の扉が閉まったときには、朔弥さんが私の前まで来ていた。 「同じ部屋で寝てほしいのか」 「そうは言っていません」 「ここではないのかと聞いただろう」 「確認しただけです」 一歩下がると、膝の裏がベッドへ触れた。 朔弥さんが私の頬へ手を添える。親指が唇の端をなぞり、そこで止まった。 「煽らないでくれ」 「この程度で?」 「今の俺には、この程度でも十分だ」 唇を見られている。そう気づくと、何を言い返すつもりだったか忘れてしまった。 「真尋。同じベッドに入って、君を抱かずに眠れると思うか」 私は頬に添えられた手へ、自分の手を重ねた。 「先生にも止められましたよね」 「わかっている。だから別室で寝る」 返事を待たず、朔弥さんは私から離れた。 髪を一房すくい、その先へ口づける。唇には触れないくせに、そんなことはする。 「おやすみ、真尋」 扉へ向き直った人の袖を、私はつかんでいた。 朔弥さんが足を止める。 「君を一人にする気はないって、言いましたよね」 「隣の部屋だ」 「病室には会社まで呼んだのに、寝るときは隣なんですね」 袖をつかんだ指を見下ろされる。自分で言っておいて、目を合わせづらかった。 「……一人で寝たくないのか」 そこまで言わせるつもりだろうか。 私は袖を離さず、空いているほうの枕を見た。 「二つ、用意してあるじゃないですか」 朔弥さんは長く黙ってから、私の手を袖から外した。 断られたと思った。けれど、その手を握ったままベッドへ戻ってくる。 「わかった。一緒に寝よう」 嬉しくて、すぐには返事ができなかった。 「ただし、今夜は俺を困らせないでくれ」 「いつも困らせているのは、そちらです」 朔弥さんは言い返さず、掛け布団をめくった。 *** 着替えを済ませ、寝室の明かりを落とした。 私が横になると、朔弥さんも反対側からベッドへ入ってきた。 遠い。 大きすぎるベッドの、端と端だ。 しかも、背中を向けている。 さっきまで頬や髪へ触れていた人とは思えない。 「朔弥さん」 「何だ」 「落ちますよ」 「落ちない」 「口説く相手に、背中を向けるんですか」 肩が動いた。ため息だったらしい。 ようやくこちらを向いた
ダイニングルームに入った瞬間、足が止まった。 義母の冴子、その隣には祖母の千鶴、向かいには朔弥さん。そして、夜の席にいることがあまりに自然すぎる一条澄麗。 胸の奥で脈がひとつ大きく跳ねた。嫌な予感だけが、遅れてはっきり輪郭を持つ。 澄麗は淡いグレージュのセットアップに細いパールを合わせて、まるで最初からこの家の夜の食卓に馴染むために育ってきたみたいな顔をしている。 「こんばんは、真尋さん」 澄麗がやわらかく微笑んだ。 「ごめんなさい、勝手にお邪魔してしまって。御門家とは家族同然のお付き合いですので、つい昔の癖で入ってしまいましたの」 私は一拍遅れて会釈した。 もう
「真尋。今はやめろ」 掴まれた手首が痛い。 腹の奥が焼けて、呼吸が乱れた。 叫びたかった。この場で全部、ぶちまけたかった。 彼の顔を見た。 そこにあったのは、私への心配ではなく、場を乱された苛立ちだった。 胸の奥を、鈍いものが刺した。 そのとき、澄麗の声が届いた。 「ごめんなさい。私、何か失礼でしたか?」 澄麗は困ったように目を伏せる。 完璧だった。責めたほうが浅く見える形に、もう整っていた。 「……いいえ。お気遣い、ありがとうございます」 噛みしめた唇が切れ、舌の裏に鉄の味がした。 朔弥さんの手が離れる。 そこだけが、熱を持って痛んだ。
昔、午前二時の会議室で、朔弥さんが紙コップのコーヒーを私の手元に置いたことがある。 御門ホールディングスを再建させようと二人で必死だったころ。 私の一番好きなオートミルクラテだった。 「まだやるのか」 「数字が嘘をついているので」 彼は私の肩越しに資料を覗き込み、すぐ近くで小さく息をついた。 「そういうところだ。せめて休むときは休め」 低い声が近すぎて、あのころの私はそれだけで少し浮き足立った。 彼が私を気にかけてくれているのだと、本気で思った。 再建の底で、ああいうくだらないやりとりができる夜だけは、私たちはたぶん同じ側にいた。 なのに今は
朔也さんは一晩中帰ってこなかった。 私が送ったメッセージも、既読のまま返事はなかった。 翌日、会社の空気は昨日より少しだけ悪かった。 数字が悪いわけでも、会議が荒れているわけでもない。ただ、人の視線だけが妙に湿っている。そういう日の会社は面倒だ。問題が表に出る前に、誰かが勝手に物語を作っている。 エレベーターを降りた瞬間、すれ違った総務の二人が、私を見るでもなく声を落とした。 「やっぱり、社長とは昔からそういう感じだったんだ」 「二人、本当にお似合いだよね」 「でも今さら入るんだ。しかもブランド戦略って」 一条澄麗。 帰国した、若くて、家柄もよくて、米国の名門